京都府京田辺市 棚倉孫神社

同志社大学田辺キャンパス、JR学研都市線の同志社前駅から府道を2キロあまり北に進むと、府道の左側に並行する、車一台がやっとの狭い急坂が見える。ここへ乗り入れて、坂を上り切るとすぐに下り坂になる。

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この写真の中央に写っているのがその下り坂だ。

今回紹介するのは、棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)である。延喜式神名帳に掲載のある式内社で、創建は飛鳥時代に遡ると社伝にあった。

その神社の鳥居の前から振り返って撮影したのがこの写真と言うわけだ。手前には小さな手水舎が見える。




写真を撮っていたのはこの正面鳥居の前の階段から。

鳥居には元禄十五年の文字が見える。赤穂浪士の討ち入りの年だな。ざっと300年余り前のものだ。




拝殿

この神社は、ご本殿瑞垣の前まで進めるが、参拝は拝殿正面の唐破風向拝の下で行う。鈴緒と賽銭箱が見えるだろう。

唐破風向拝の手前には、新しい木材で作られた拝所が設けられている。説明を見ると、平成25年の伊勢神宮式年遷宮の折、古殿舎の木材を譲り与えてもらい、削り直した木材で今年の二月に新築したとあった。

木材は、内宮別宮の月讀宮(つきよみのみや)と伊佐奈宮(おそらく伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)と伊佐奈弥宮(いざなみのみや)のことだろうと思う)のものが使われているそうだ。






拝殿手前には狛犬さんが控えている。




鳥居に扁額はなかったが、この拝殿正面には真新しい扁額が掲げられていた。




檜皮葺一間社流造のご本殿と瑞垣。

ご祭神さまは

神武天皇に霊剣・布都御魂をもたらした
高倉下命 さま
たかくらじのみこと

である。飛行神社のご祭神さまである饒速日命(にぎはやひのみこと)さまの息子さんと言われている。

霊剣・布都御魂(ふつのみたま)は、奈良の石上神宮のご神体でもある。石上神宮には出土した布都御魂と、おそらくなら、それよりずっと有名な天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ:リンク先はWikipedia)がお祀りされている。




末社・五社。向かって左、奥側から

稲荷大神(いなりおおかみ)さまをお祀りする正一位・寶蓮稲荷大明神(しょういちい・ほうれんいなりだいみょうじん)社。

紅梅殿大神(こうばいどのおおかみ)さま、島田忠興(しまだただおき)翁をお祀りする紅梅殿・老松殿(こうばいどの・おいまつでん)社。紅梅殿は菅原道真公の邸宅のことだが・・・そもそも、この神社に天神さんはお祀りされていないのに、天神さんゆかりのこの末社がなぜ?

春日大明神(かすがだいみょうじん)社・  天照皇大神宮(あまてらすすめらだいじんぐう)社・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)社。神仏習合系ではあるが、ご祭神さまと社名が一致しているので、そのままとさせてもらう。

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)さまと伊弉冉尊(いざなみのみこと)さまをお祀りする多賀神社(たがじんじゃ)。

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)さまをお祀りする稲荷神社(いなりじんじゃ)。

以上の5社だ。最初と最後がカブっているような気もするが、まぁ何か事情があるんだろう。





末社・金刀比羅社(ことひらしゃ)。

ご祭神さまは大物主命(おおものぬしのみこと)さま。京都府南部の町の神社にはたまに見られる春日見世棚造の社殿だ。

幕末にはすでに末社として存在したらしいが、この社殿は、昭和の終り頃、ご本殿の修理の際に、ご祭神さまにお遷りいただくための仮社殿として造られたものを、その後金刀比羅社の社殿としたとある。




開放されている神庫には、お神輿が置いてあった。




これは18世紀終わりごろに奉納された雨乞いの絵馬




ずらっと並んだ、米寿祝の奉納額。関西の一部では、米寿祝に升と掻き棒を使う風習が残っている。古くは京都市内でもあったようだが、現在では見たことがない。

この神社のものはこのような額に納めた形になっているが、聞けばいろいろな形態があるそうで、これが正しいと言う形式はないらしい。






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今日の七十二候  4月25日 穀雨次候:霜止出苗




            

京都府城陽市 水度神社

南山城猫又部隊のグリズにゃ〜(笑)ことショウ1701さんに教えてもらって、先日紹介した久世神社。そこから車で5分ほどのところに今日紹介する水度神社(みとじんじゃ)はある。

実は今回もコラボをお願いした。猫又部隊さんのエントリは→こちら←。 写真は圧倒的にあちらの方が美しいので、そちらで堪能してほしい。普段の行いもあって、俺の場合写真の腕だけじゃなくて天気も壊滅的に悪いし。(笑)

延喜式神名帳に小社として掲載がある式内社であると同時に、逸文ではあるが山城国風土記(古風土記:奈良時代の報告書)にも名前があることから、成立は奈良時代かそれ以前と見られているようだ。

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小さな橋の向こうには参道入り口の鳥居。この橋の手前には専用駐車場が10台程度あるので、普段の日ならお参りに不自由することはないだろう。




手水舎。鳥居のすぐ向こうにある。

先日と同じ雨の日に行ったので全体に写真写りが悪いのは勘弁してくれ。傘をさしての撮影なので、シャッター速度も落ちるからぶれ気味になるし。




参道を登りきって境内に入ると、立派な拝殿があった。






拝殿の奥、御本殿瑞垣前には狛犬さんが控えている。




御本殿と瑞垣、神門前の拝所

御本殿は檜皮葺一間社流造に大きな千鳥破風が設けられている。正面から見ると権現造のようにもみえるが、流屋根だし、後ろに接続する建物もない。




御本殿側面。流造とは言え、後ろ側も流れ幅が大きく、一瞬両流れか?と思ってしまった。

御祭神さまは

日本の主祭神さまである
天照皇大神 さま
あまてらすすめおおかみ

原初神・造化の三神さまの一柱で征服と統治の神、
高皇産霊神 さま
たかみむすびのかみ


海神・綿津見神(わたつみのかみ)さまの娘で、天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)さまの息子である山幸彦さまの妻(天照大神さまの曾孫嫁)。そして神武天皇のお祖母さまである
和多都美豊玉姫命 さま
わたつみとよたまひめのみこと


の三柱である。




この神社には小宮十社として末社が10ある。順に紹介しよう。ご祭神さまなどの由緒はわからないが、ご社名から勧請元は推定できるのでその主祭神さまとした。

上は手前から、

宗像三女神(むなかたみはしらのめのかみ)さまをお祀りする厳島神社(いつくしまじんじゃ)。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)さまと玉依姫命(たまよりひめのみこと)さまをお祀りする加茂神社(かもじんじゃ)。

大己貴神(おおなむちのかみ)さまと大山咋神(おおやまくいのかみ)さまをお祀りする日吉神社





大山咋神(おおやまくいのかみ)さまと中津島姫命(なかつしまひめのみこと)さまをお祀りする松尾神社(まつおじんじゃ)。

小宮の中で、このお社だけが流見世棚作りになっているのがちょっと不思議。




誉田別命(ほんだわけのみこと)さま、神功皇后(じんぐうこうごう)、比売神(ひめかみ)さまをお祀りする八幡神社(はちまんじんじゃ)。




天照大神(あまてらすおおみかみ)さまをお祀りする太神宮社(だいじんぐうしゃ)。

他の小宮も、だいたいこの檜皮葺神明見世棚造だが、さすがにここだけは千木と鰹木が乗っている。




菅原道真(すがわらみちざね)公をおまつりする天満宮社(てんまんぐうしゃ)。




倉稲魂命(うかのみたまのみこと)さまをお祀りする稲荷大明神(いなりだいみょうじん)。




ここは社名の表記がなかったが、消去法的に推定。他にもお塚などが数多くあるが、お塚には本坪鈴が下がっていないので、ここは小宮だと判断した。

春日神4柱をお祀りする春日神社(かすがじんじゃ)。




お塚のひとつ。こんな感じで稲荷大明神の周りに複数のお塚がある。稲荷山を模したものだろう。




境内に神明式の石鳥居があった。太神宮社は別にあるのにと不思議に思いながらくぐる。




八百万の神々を拝するための碑塚があった。

天地神祇という碑文が見える。八百万の神さまと言う意味だが、この言葉は滅多に使われない。昔にはよく使われたのかなと思ってちょっと当たってみたが、慈遍上人(天台宗の高位学僧にして神道家。吉田神社の神職の息子で兼好法師の兄弟)が書の中で使っているものくらいしか見当たらなかった。

天神地祇(てんじんちぎ:天神=天津神と地祇=国津神を合わせた神々と言う意味)のほうが一般的で良く使われると思う。また、先にこの神社は奈良時代の創建と書いたが、山城国風土記には

久世郡水度社・祇社
くぜのこおりみとのやしろ・くにつやしろ

とあるそうだ。しかし、上の御祭神さまを見てみれば、いずれも天津神さまなので、もしかすると昔は大国主命さまのような国津神さまをお祀りしていたのかもしれないな。




ここは神籬(ひもろぎ)。本来は屋外で神事が行われた場所のことなのだが、現在では榊など、神事に使われる木を育てている森だそうだ。


ところで、ショウさんによると、俺は出町柳狐狸妖怪組合所属だそうだ。なぜ、俺の本籍地を知ってるんだろう。w

【夜に追記】今日が二十四節季の一つ、穀雨だと言うのをすっかり忘れていた。取り敢えず22時前に追記。(笑) 春の二十四節季は今日がラスト。5月6日の「夏の立つがゆへ也」からは、いよいよ夏に入るんだな。






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今日の二十四節季 4月20日 穀雨 (こくう)
「春雨降りて百穀を生化すれば也」


今日の七十二候  4月20日 葭始生




            

京都府城陽市 久世神社

ショウ1701さんに教えて頂いた神社を紹介しよう。

ショウさんの、とても美しい写真のリンク記事は↓こちら↓。
その1 その2

京都府南部、宇治市の南隣にある城陽市の神社だ。

社名は久世神社(くぜじんじゃ)。城陽市は、もともと京都府久世郡にあった村々が合併して町になり、その後昭和40年代に市制が施行されたので、神社にはまだ久世の名前が残っていると言うわけだ。

その久世郡は、市制が施行されたり、他の街に吸収されたりして、現在は日本で一二を争うお金持ちの町、久御山町一つを残すのみとなった、一郡一町の行政単位である。

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社務所などの施設がある敷地から見上げた神域。鳥居の向こうで一段高くなったところは石の玉垣で囲まれている。

鳥居の扁額には久世社の文字が見えるが、ちょっと撮影コンディションが悪く、字が読みにくいのはカンベンな。雨降ってたんだよ。




手水舎。シンプルだがちゃんと手入れされていて美しい。






神域に上り、ご本殿を囲む瑞垣前に進むと狛犬さんが迎えてくれる。




ご本殿は、檜皮葺一間社流造丹塗白壁と言う、稲荷社で比較的多い形式だった。瑞垣は同じく丹塗りで、正面には連子窓、側面には二重斜格子窓がはめ込まれている。

ご祭神さまは

日本武尊 さま
やまとたけるのみこと


八幡神・応神天皇のお祖父様
にあたられる方である。お名前は有名だろう。

九州の熊襲征伐に16歳の若さで成功、その武勇から、打ち倒した熊襲タケル(あるいは川上タケル)より、ヤマトタケルの名前を献じられたそうだ。

そう言うと、ものすごい豪傑のようだが、実際にはまだ大人のヘアスタイルを結っていない少年で、伊勢神宮の初代斎宮であった叔母さんに女性用の衣装をもらい、美しい娘に変装して討ち入ったと言う、元祖・男の娘である

なんか神様にとんでもないこと言ってるような気もする。・・・バチ当てないで下さいね。(笑)




瑞垣神門前の拝所。ご本殿ともども極彩色の細工が施されていてとても美しい。





向かって左側が、末社・龍王社
ご祭神さまは級長津彦命(しなつひこのみこと)さま、級長津媛命(しなつひめのみこと)さまなので、奈良の龍田神社からの勧請ではないかと思われる。

向かって右側は、末社・稲荷社
もちろんご祭神さまは倉稲魂命(うかのみたまのみこと)さまである。

いずれも小さいお社だが、ちゃんと銅葺一間社流造で、このような形式の末社に良くある見世棚造ではなく、ちゃんと階が設けられた、正式なお社である。






ショウさんの美しい桜の写真に感動してやってきたわけだから、当然ソメイヨシノは完全に葉桜。花はあきらめていたのだが、なんと御衣黄(ぎょいこう)がちょうど満開だった。

八重咲きの山桜のひとつである御衣黄は、ソメイヨシノよりずいぶん花期が遅いのだ。緑の桜として有名なこの花を今年も見られてうれしかった。




記紀によると、30歳で薨去された日本武尊さまは、白鳥となって大和の国経由で河内の国に飛来し、その後天に上ったとされる。一方、この地では鷺坂に飛来して、そのまま羽を休めたとある。この八重桜の向こう側に見えている坂道が鷺坂なのだ。






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鎌達稲荷神社

今回紹介するのは鎌達稲荷神社(けんたついなりじんじゃ)である。

京都市南区にある小さな神社だが、ちょっとした公園の一角に鎮座されている。この公園は、京都市を南北に走る旧千本通を軸に、東寺(教王護国寺)と東西対称の位置にあるのだ。

旧千本通と言えば、平安京の朱雀大路。そう、この公園はかつて平安京に存在した西寺の跡地なのである。


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八条中学西側の道は、東西に走る針小路通の八条中学西北角から始まって南に150メートル余りで突き当たる短い道だ。

その突き当りにあるのがこの神社の鳥居と社号標である。敷地が北向きなので、鳥居を通して見えるのは社務所と神職さんの住居だろうか。




ご社殿

境内に入って左に曲がると見える、東向きの建物だ。ご本殿と拝殿、幣殿を一つにした建物である。

社伝によると6世紀ごろ創祀されたらしい。伏見稲荷大社よりも古いため、元稲荷の一つに数えられたそうだ。




側面から。銅葺流造であるが、拝殿・幣殿を一体化した御社殿に良くある通り、正面側の流れ幅が大きい。




正面格子部分のアクリル板を通して内部を見せて頂いた。

手前が拝殿、一段上がって幣殿だろうと思うが、御本殿前に階がないのは違和感がある。もしかするとご本殿自体は正面扉の奥なのかもしれないな。

ご祭神さまは

稲荷神の主神
倉稲魂大神 さま
うかのみたまのおおかみ


導きの神
猿田彦大神 さま
さるたひこおおかみ


である。

他の神社でもときどき見られるように、この神社でも倉稲魂大神さまを豊受大神さま(伊勢神宮外宮の主祭神様)と同一視してお祀りしているようだ。「うけ」も「うか」も食べ物のことを指す言葉なので、食物神としての共通性からだろう。




摂社 白菊稲荷神社

稲荷神社に稲荷神社の摂社と言うのは妙な感じがするが、ご祭神さまの白菊大神(しらぎくおおかみ)さまは、伏見の稲荷山三ノ峰・下ノ社のご祭神さまだから、決しておかしくはないのだ。




ご社殿は覆屋の中におさめられた、銅葺流見世棚造である。

もちろん命婦狐さまも御鎮座だ。




お塚。

向かって左から

宇賀神塚(うかのかみのつか)

神仏習合時代に天台宗などでもお祀りされた人面蛇身の福徳神さまである。龍神さまの化身ともいわれるが、倉稲魂命さまとの名前繋がりの御縁もあるようだ。

浄蔵貴所之塚(じょうぞうきしょのつか)

浄蔵貴所師は、9世紀から10世紀にかけての比叡山の呪術僧。一乗戻り橋で亡父を冥府から一時的に呼びもどしたり、寺の建立、後進の育成などにも力のあった高僧である。

黒住大明神(くろずみだいみょうじん)

教派神道系、幕末三宗教の先頭、黒住教の創始者、黒住宗忠(くろずみむねただ)師のお塚と思われる。続く二つは天理教と金光教だ。

阪蚤臾誠(さかすぎだいみょうじん)

どなたのお塚なのかは分からない。お名前から察するにご神木の神格かもしれないと思ったり。




これは神社を取り巻く公園、唐橋西寺公園の中央にある講堂跡土塁。




土塁の上には史跡を示す石碑がある。がこの神社のご社殿の屋根だ。


社伝によるとこの神社は、平安朝以降は公家・土御門家による祭祀が執り行われたそうだ。

土御門(つちみかど)家にも三流あったが他の二流は鎌倉・室町期に断絶、この土御門家とは、子爵として明治以降も続いた安倍氏嫡流の土御門家である。つまり、大化の改新の時代、かぐや姫に登場する右大臣のモデル安倍御主人(あべのみうし)公の父、安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)公に始まり、平安時代の陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)公へと続き、そして鎌倉期に土御門家を名乗り始めたた名家なのだ。

土御門家は他の多くの公家とは違って御所の近くに邸を構えず、この近隣に陰陽道の研究所を兼ねた大邸宅を持っていたそうだ。土御門家は晴明公に繋がるだけあって、陰陽道を能くしたそうで、この神社にもその一端がうかがわれる。

それを垣間見れるものとして、この神社には

守り

 サ ム ハ ラ

と言うお守りがある。難しい字だが、これは漢字ではない。神字と言う、信仰に関わる特別な文字だと言えばいいのかな。

昔は各地の神社やお寺で、戦場での銃弾除けなど主に安全祈願の御利益を祈念して使われた神字だそうだが、この神社のものは、災難除けだけではなく心願成就を含め、大きな御利益があると伝え聞いた。

普段社務所は締まっているが、社務所前には木製ケースに納められたこのお守りが置いてあるので自由に求められる。志納金は800円、お賽銭と同じところに納めるようになっている。

陰陽道の大家が奉祀してきただけあって、人々の良き心に疑いを差し挟まない強さを感じた次第、俺もありがたく授与して戴いて来た。

(2015.11.5エントリ追加) お札やお守りについて、詳しくはこちら







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猿田彦神社(京都市上京区)

二か月ぶりの神案内である。寒さで根性ナシになっていたんだが、光の春とは言え春は春、そろそろ動こうかなと思って、本格的な春を前にリハビリがてら小さな神社にお参りしてきた。

どのくらい小さな神社かと言うと、注意して探さないと見落とすレベルかも知れない。間口が二間半くらいしかないからな。

社名は猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)。

右京区にも庚申講で有名な猿田彦神社があるが、同じ猿田彦大神様をお祀りする神社と言っても趣にずいぶん違いがある。


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上御霊神社の正面、以前紹介した門前菓子の唐板のお店から西へ徒歩1分。烏丸通に出る直前にこの神社はある。

石造りの玉垣と神明造の鳥居。

小なりといえども風格は十分だ。




拝殿は瓦葺の建物だが、良く見ると割拝殿構造になっている。

扉が閉まっているので通過することはできないが、中をのぞいてみると左右の部分は神庫などになっているようだが、中央部分は床が張ってないので、扉を開ければ通り抜けられるのだ。

この神社、神職の常駐はなく、祭礼の折は上御霊神社から神職がやってきて執り行うとか。

平安遷都の折、この神社は正式に官幣社となったようで朝廷の崇敬も篤く、また、室町時代にはおよそ16ヘクタールの面積を持つ広大な社域を有していたそうだ。お隣の上御霊神社はこの神社より数十年遅れて創建されたのだが、応仁の乱の東陣を張れるくらい大きかったわけだから、おそらくこの神社は西北方向に拡がってたんだろうな。

応仁の乱やそれに続く戦乱で焼失、その後個人的に祭祀が継続されていたところでも天明の大火で焼けると言う災難に見舞われていて、現在地での祭祀は18世紀終わりごろからと言う事だった。

その後明治の旧社格制度では村社に列格された小さな神社と言う扱いである。社号標には村社の文字が塗りつぶされていた。




ご本殿。

銅葺一間社流造である。小さいけれど、上にも書いた通りそれは飽くまで現在の姿だ。もともとは平安時代より前に存在した神社で、当時長岡京に都を構えていた桓武天皇は、この神社の神託によって平安京への遷都を決意したとされている。

ご祭神さまは、

導きの神として知られる
猿田彦大神 さま
さるたひこおおかみ


奥様の
天鈿女命 さま
あめのうずめのみこと


の二柱である。






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今日の七十二候 2月24日 雨水次候:霞始靆
靆(ダイ:雲が連なって留まっている様子)



            

熊野若王子神社

有名な散策路「哲学の道」の起点にある神社を紹介しよう。

熊野三山から勧請して創建された熊野若王子神社(くまの にゃくおうじ じんじゃ)である。

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小さな神社である。もともとは紅葉で有名な永観堂の鎮守社として後白河法皇が熊野権現を勧請したのにはじまるとあった。

従って中世12世紀の創建だから京都にあってはそれほど古い神社とは言いにくいのかもしれない。京都三熊野と並び称される熊野神社は9世紀の創建だが、三十三間堂の鎮守社として創建された新熊野神社はこの神社と同じ時期に後白河法皇の勅願によって創建されたとある。




木製の社号標

句碑の解説を書いた駒札が見えるが、境内には幕末ごろの句碑や歌碑が散在している。




鳥居をくぐると境内は右手に拡がっている。これで全景だ。

写真左手は末社殿、中央が拝殿で、その奥に木に埋もれるようにして見えている屋根のてっぺんがご本殿なのだが、残念ながら建築様式がわかるほどには見ることができなかった。

写真右端に見えている宝形造(とんがり屋根)の建物は不明だ。裏から回ってみたがお寺などは見当たらなかった。この宝形造や六注・八注造などの寄棟は神社建築では原則として用いられない。

と言うのも、神社建築に於いて、特にご本殿では「屋根に妻を持つこと」が大原則だからである。寄棟造に妻はない。




手水舎

小さな神社だが、近隣に南禅寺や永観堂など観光寺院なども多いため参拝客は多いのだろう。境内に自販機が数台設置されている。




拝殿

狛犬さんが控える入母屋造の立派なものだ。

ご祭神さまは四柱。

根源神・神世七代の筆頭(性別なし)
国常立神 さま
くにのとこたちのかみ


根源神・神世七代の七代目(男性)
伊佐那岐神 さま
いざなぎのかみ


根源神・神世七代の七代目(女性)
伊佐那美神 さま
いざなみのかみ


伊佐那岐・伊佐那美夫妻の最後の三子である三貴子(みはしらのうずのみこ)の長姉
天照皇大神 さま
あまてらすすめおおかみ


だ。応仁の乱で荒廃した状態が続いていたが、明治の神仏分離の折に社殿の再建がなった。その折には熊野三山に因んで本宮・新宮・那智と、根源神の御子神(若宮)様である若一王子(天照皇大神)さまの若宮の計四社が建てられたそうだ。

現在のご社殿は昭和の大改修の折に一社相殿に改められたものである。




末社・恵比須殿

かつて現在の京都御所の南手に、暗渠であった川が地上に現れる場所があり、その近くに蛭子社があったため恵比須川の名前が付けられたそうだ。その後川沿いに人家も増え、その中心部の道の名前として夷川通と呼ばれるようになった。

そして応仁の乱が勃発して付近に戦災が及び神社も焼失したが蛭子像だけは残った

・・・と言う記録が18世紀の書物に古老の話として記されている、と、ご由緒書きにあった。




その蛭子像がこれだ。寄木造の等身大木像である。夷川の蛭子社亡失の折に、この木像はこの神社へ納められお祀りされたらしい。




拝殿と恵比須殿の間に臥牛さんが・・・?

菅公をお祀りしている末社はなさそうだったのだが、謎だ。




熊野神社と言えばご神木は(なぎ)の木

鳥居前にあるこの梛の木は、何でも樹齢400年余りの古木だそうで京都で最大の梛らしい。

神社のお守りには悪しきものをなぎ倒す力があると書かれていた。^^;






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下鴨神社末社 言社の謎

今回は神社の紹介と言うよりちょっとしたクイズだ。

下鴨神社(賀茂御祖神社)のご本殿前には言社(ことしゃ)と言う七つのお社があって、それぞれが生まれ年の守護神とされている。

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このように配置されている。ご祭神さまは名前こそ異なるが全部大国主命(おおくにぬしのみこと)さまである。一応詳細を紹介しておこう。

一言社(いちのことしゃ)東
 巳年・未年の守護神
 ご祭神さま:大国魂神(おおくにたまのかみ)さま
 お名前のご由緒:根の国の素戔嗚尊さまのところから現世に帰られた時のお名前のひとつ。


一言社(いちのことしゃ)西
 午年の守護神
 ご祭神さま:顕国魂神(うつしくにたまのかみ)さま
 お名前のご由緒:大国魂神さまと同じく根の国から帰還された時のお名前の一つ。


二言社(にのことしゃ)北
 子年の守護神
 ご祭神さま:大国主神(おおくにぬしのかみ)さま
 お名前のご由緒:根の国から帰国後、国を治める大王として名乗られたお名前。


二言社(にのことしゃ)南
 丑年・亥年の守護神
 ご祭神さま:大物主神(おおものぬしのかみ)さま
 お名前のご由緒:国譲りの後に名乗られたお名前、古事記では大国主さまの和魂とされている。


三言社(さんのことしゃ)中
 寅年・戌年の守護神
 ご祭神さま:大貴己神(おおなむちのかみ)さま
 お名前のご由緒:大国主命さまが根の国に落とされる前、若い頃のお名前。

三言社(さんのことしゃ)北
 卯年・酉年の守護神
 ご祭神さま:志固男神(しこおのかみ)さま
 お名前のご由緒:根の国において呼ばれていたお名前、武神と言う意味だ。


三言社(さんのことしゃ)南
 辰年・申年の守護神
 ご祭神さま:八千矛神(やちほこのかみ)さま
 お名前のご由緒:正妻・須勢理毘売さまとの歌物語でのお名前。武神としての性格を表している。



さて、ここでクイズだ。

十二支を七つのお社に配分しているわけだが。あるルールに則って組み合わせ・配分されているようだ。さて、どのようなルールで組み合わせ・配分されているかと言うのが今日の問題だ。

ま、たいした問題じゃないが頭の体操にどうぞ。

正解はこれをクリック。






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大豊神社

今回紹介するのは、鹿ケ谷(ししがたに)と呼ばれるエリアにある神社だ。この鹿ケ谷には宗教施設が非常にたくさんある。

神社のお名前は大豊神社(おおとよじんじゃ)、千年以上の歴史を持つ神社だが式内社ではなく、もともとは勅願所(勅命で創建された社寺)としてのスタートだったようだ。

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一の鳥居、社号標と狛犬さん

この付近のメインストリートから山側に少し入ったところにある。ちょっとわかりにくいが、メインストリートにある「大豊神社駒返しの槙跡」の小さな石碑から入ればここにたどり着ける。




一の鳥居を抜けて、参道にかかる大豊橋は琵琶湖疏水の支線にかかっている。左側の道は、哲学の道と呼ばれる散策道路だ。




哲学の道を超えると表参道。ここにも狛犬さんがいた。




境内正面鳥居。ここは明神式の石鳥居である。






正面鳥居の狛犬さん。比較的新しいもののようだったが、ちょっとコミカルな風貌をしている。




宇多天皇御惱平癒勅願社碑

先に述べた通りこの神社は勅命で創建されたものだがこの表現にはちょっと疑問が残る。御惱(御悩)とは貴人の病気のことを言う表現だ。

宇多天皇は、一度は臣籍降下して源定省(みなもとのさだみ)と呼ばれていたのだが、後見人であった藤原淑子の強力なバックアップで、父である光孝天皇が病に倒れた際、皇族に復帰して親王宣下を受け、光孝天皇崩御後に践祚したと言う経緯がある。

でもって、即位の年がこの神社創建の年であり、勅命を伝えたのが藤原淑子だと社伝にあることを見れば、その病気平癒祈願は宇多天皇の病気ではなく父皇・光孝天皇の病気平癒を願った(と言う形を取った)ものだったのではないだろうか。

まして宇多天皇は仁和寺を建立するなど仏教に心酔していた節もあるので、神社を創建すると言うのも微妙に不自然だし。





手水舎

椿ヶ峰のご神水と書かれている。一応東山三十六峰の一つらしいが、標高132メートルの小高い丘らしい。ピークはないと言う表現も散見される。




拝殿

珍しく、靴を脱げば自由に上がることができるらしい。




ご本殿のある神域への階段。この両脇にも狛犬さんがいたが写真は省略。




ご本殿。覆屋に入った杮葺一間社流造だ。

ご祭神さまは先に述べたような病気平癒祈願と言う事から

医薬の守護神
少彦名命 さま
すくなひこなのみこと


だ。後年、

八幡神さまの主祭神・誉田別命(ほんだわけのみこと)さま、すなわち第15代
応神天皇
おうじんてんのう


学問の神
菅原道真 公
すがわらのみちざね


をご配神さまとして合祀したとある。





実はこの神社を有名にしているのは末社なのだ。以前紹介した京丹後市の金刀比羅神社も末社に奉納された神使の狛猫さんで有名だったのと同じだな。

まずは末社二社。

向かって左が火難除けの愛宕社(あたごしゃ)

ご祭神さまは親神様の伊弉冉尊(いざなみのみこと)さまや若宮様の迦遇槌命(かぐつちのみこと)さまをはじめとする複数の神様たちだ。

もう一つは災難除けの日吉社(ひよししゃ)

ご祭神さまは大己貴神(おおなむちのかみ)さまと大山咋神(おおやまくいのかみ)さまである。




愛宕社の前には神使の狛鳶さん

狛鳶と言っても一体だけで対にはなっていない。それに愛宕神社には特定の神使はいなかったと思う。

もしかすると愛宕社の火難除け→火消→とび職から来たのかなと想像してみたり。




こっちは日吉社の真猿さん

日吉社と言えば真猿(まさる)さんだから由来ははっきりしている。この神社では一体だけで狛猿と言う呼び方をされていたが、やはり日吉神社と言えば真猿さんと呼びたいかも。




平成になってからの奉納、狛蛇さん。これもまた一体だけで対にはなっていない。

と言うか、神使として仕える神様のお社がない。蛇と言えば奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)、あるいは神仏習合時代の弁天様だが・・・




末社・稲荷社(いなりしゃ)

もちろんご祭神さまは倉稲魂命(うかのみたまのみこと)さま






こちらにはちゃんと対になった神使、命婦狐さまがおられたので一安心。




末社・大国社(おおくにしゃ)

ご祭神さまは大国主命(おおくにぬしのみこと)さま




そしてこの神社で一番人気の神使はこの狛ねずみ。くれぐれもちょこまか動き回るハツカネズミの一種、独楽鼠ではないので注意。w

こちらは生命の象徴である水玉を抱えた吽形のねずみ。




こちらは知性の象徴である巻物を持つ阿形のねずみ。

ねずみの特性から子授け安産のご利益が期待されているようだ。




お約束の見上げ写真はご神木である杉の大木




境内全景。




先にも書いたがこの辺りは宗教関連施設が多い。狛うさぎで有名な岡崎神社や紅葉が有名な永観堂も徒歩範囲だし、熊野神社系の若王子神社も近い。

また、この献灯は南禅寺の湯豆腐で有名なお店のものだ。

上の方に見えるのはカトリック系のノートルダム女学院中学・高校のグランドだったりする。






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玄琢八坂神社

また小さな神社を紹介しよう。いわゆる地域の氏神様だ。京都市北区玄琢、ここにある八坂神社(やさかじんじゃ)。社名から判るとおり祇園の八坂神社からご祭神さまを勧請した小社だ。

画像はクリックで別窓拡大する。


正面鳥居と社号標。非常に日当たりのいい時間帯だったので、ちょっと飛んじゃってるのはカンベンな。




拝殿

ここにも本坪鈴があるが、ご本殿前の棟門のところまで進めるのでそこで拝礼してもいい。




拝殿を通してご本殿前を見る。




ご本殿

一段高いところに建てられた銅葺一間社流造だ。ご祭神さまは先に紹介した通り祇園から勧請された

素戔嗚尊 さま
すさのおのみこと


である。疫神さまとして、病除けの祈願もあったのだろう。また、神仏習合時代には牛頭天王(ごずてんのう)さまとして崇められていたようだ。

この神社から少し南、徒歩で15分から20分ぐらいのところには、先のご祭神さまとして疫神さまの素戔嗚尊さまをお祀りする今宮神社もあるので、そうした関係も多少はあるのかな。




末社・二社

立派な覆屋に入った二間社見世棚造のご社殿は、向かって右が天満大神・菅原道真(すがわらのみちざね)公をお祀りする北野社、向かって左が稲荷大神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)さまをお祀りする稲荷社だ。




境内地蔵堂

ここが一番きれいに手入れされていたところを見ると、普段は無人の神社だがここだけはご近所さんがお世話されているのかもしれない。




境内の片隅、正面鳥居から脇に入ったところには竹と注連縄で括られた石組と蹲があった。何かの祭場なのだろうか。

竹が青竹でなくなっているところを見ると、しばらく使われていないようである。




境内はちょっとしたスペースがあってベンチなども設置されている。写真右側の青いのは普通の樹脂製ベンチだが、左奥にあるのは古い鳥居の笠木を利用したもののように見える。

ところで、拡大してみると地面がつぶつぶしているのがわかるかな。




ここにもまた子供たちに見向きされていないのであろう樫の木のどんぐりが大量に落ちていた。






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法華宗真門流総本山 慧光山本隆寺 境内鎮守社

カテゴリを京都『神』案内にするかどうかかなり迷ったが、一応鳥居もあるので・・・


画像はクリックで別窓拡大する。



以前紹介した岩上神社のすぐ隣にある、法華宗真門流総本山 慧光山本隆寺




その境内には寺域を守護する鎮守神さまのお社がある。

扁額も社号標もご由緒書きもないのでどんな神様がおられるのか想像もつかない。




で、神門から中をのぞかせて頂くと・・・^^;

さすが寺内社、よく混ざっておられる。(笑)

蛇足かもしれないが、神道において鏡は重要なアイテムだが、仏教では使わない。香炉と木魚は仏教のアイテムだが神道では用いない。

仏具の形式ではあるが、燭台だけは双方に共用できると言っていいのかな。w




どうも観光客に人気らしい油土塀。瓦を挟み込んだ形式は白漆喰の築地塀なんかでもよくあると思うし珍しくもないと思うんだけどねぇ。実際、何組かの観光客が写真を撮っていた。






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